舞台「吐露」(2023)の魅力:マジメに作品世界を掘り下げてみる!

 なんか、エマ様の初舞台「シロツメクサ」でも似たような書き出しだったけど、やはり書いておこう。

 この文章は、かなり堅苦しい内容になっています(しかも超長文!)。おいおい、たかが舞台だぞ、とツッコまれそうなぐらいマジメな内容になってしまって申し訳ないのですが、エンタメ系の舞台が心に残るのは、ふっと物語のどこかしらが観客の琴線にふれることがあるからだと思います。それに創作には作者が意図した表現と、無意識で表出した表現があります。これほどの素晴らしい舞台を、ただ「楽しかった」で終わらせるのはもったいないですよね。まあ、かなり深読みしている部分も多いと思いますので「はぁ?」な部分もあるかと思いますが、あーだこーだと観客が述べあうのはよい作品の証拠(?)。ぜひご一緒に考えてみませんか。それに、ある程度の情報がないと、作者や演者に興味がない方は、見ようかなという意欲が湧かないと思いますので、再演(?)のために書いていると思ってください。 ※以下 敬称略

はじめに ~笑っていいの?~

 幼馴染み4人が事件に巻き込まれていく姿を描いた群像劇だが、Aチーム開演前に実月いまが毎回挨拶をされた。その時に繰り返していたのが、とてもシリアスな内容なのだが、ぜひ面白い場面があったら笑ってください という言葉だった。客席を温めるためでもあったとは思うが、終演後に振り返ってみると、演者や演出側の意図として悲劇をやろうとしているわけではないということがわかる。
 アメリカにはトラジックコメディ “tragicomedy"というジャンルがある。例えば映画であれば『アパートの鍵貸します』『ライフ・イス・ビューティフル』『パラサイト半地下の家族』などがそう分類される。しかし日本では志向が相反するためか、コメディ要素が強い物はコメディ、悲劇の要素が強い物は悲劇と分類されてしまう。
 しかし笑いと悲劇は併存しないのだろうか。私はそうは思わない。笑いがあるから悲劇が際立つ。悲劇があるから笑いが沁みる。エマ様の前作「シロツメクサ」もそうだが、悲劇と喜劇は紙一重である。そういう意味でもこの「吐露」(2023)もトラコメだと言える。だから今回の上演をご覧になった方で、前述した映画群をご覧になっている方がいらっしゃれば似たようなテイストだとご理解いただけるだろうし、未見の方はそういう雰囲気をイメージしていただいてよいと思う。こんなに「うんこ」の言い回しがスパイスになっているトラコメも珍しいだろう(笑)。ただしこの作品が笑いにくいのは、やはりそれなりに重いモチーフを内包しているからに他ならないし、作品自体がコントやコメディの枠で収まりきれない強靱な背骨をもっているからだと思う。

「運命」からの解放 「イノセンス」の喪失

 人の人生とか何か。自分が選択をすることで人生を創り出しているのか、それとも運命の上をただなぞっているのか。哲学ではおなじみの命題だ。この物語でも、そのあたりが物語の背景として感じられる。
 この物語は幼馴染みという設定になっているが、この生まれと育ちについては、自分ではどうすることもできない厳しい現実というとらえ方もできる。そんな彼らに新たな呪縛となってまとわりつくのが黒谷だ。黒谷という人物は劇中に姿を見せない。演劇ではときどき、物語のカギを握る存在が全く登場しないことがある。この黒谷をどう考えるのか。だから彼を「現実」とか「運命」の象徴と捉えてみるのもありだと思う。実際彼らが黒谷に出会ったのは中3。義務教育の終わりの年だというのも象徴的だ。登場人物たちの現在の年齢設定ははっきりしていない。しかし劇中の状況から察するに二十代だと考えられる。そして彼らは別れる。新しい現実と向き合う。そのあたりからイノセンスの喪失、真の意味で大人になるための物語だと捉えることができる。

登場人物4人 そして「仲間」

 この物語はグッとくる。男泣きの物語、バディの物語だ。この4人というのは群像劇の場合、とても収まりがよい。3人や5人の場合は奇数のため、その中で2人がくっつくと残りが1人となってしまい、三角関係などのように緊張感が生じやすい。それに対して4人であれば、2人が組んでも2人残る。さらにそのペアの組み方のバリエーションが増えるので、場面構築の中で話が展開しやすくなる

 過去の映画や演劇にもいっぱいある。みなさんが一番思い出すのはこれかも知れない。

 ロブ・ライナー監督の『スタンド・バイ・ミー』(1986)は、同郷の少年4人の物語である。ただテイストは大分違うし、物語の主なモチーフも違う。個人的にはこちらを思い出した。

 バリー・レビンソン監督の『スリーパーズ』(1996)である。ほんのちょっとしたイタズラ心が災いして大事件になり、少年院に送られることになった4人の仲間。そこで虐待を受けた若者たちによる復讐劇だ。どちらも4人組(全員男)の物語であるし、幼馴染みの物語だ。さらに後者には女性も重要な存在として登場する。
 この舞台でも仲間のつながりについて描かれている。それぞれのキャラクターの背景はあまり描かれていない(台本を読んで、キャラクターそれぞれにそんな背景があるのかと驚いたぐらいだ)が、彼らがどうやってつながってきたのか、いくつかの台詞を通してわかるし、その演技で充分伝わってくる。そのあたりは演者さんの巧さだと思うし、本作の魅力だ。

ラストの解釈、そして「吐露」の意味

 さて皆さんはラストをどう解釈されただろうか。

 もし、私がすでに述べたようにイノセンスの喪失の物語であれば、オサムも含めて彼らは全員、新しい道を歩み始めたと考える方が自然である。しかし。もし自分が観劇した印象のままであるならば、「オサムは自首をして、全ての罪を引き受けた」と考えた方がいいのかな、と思った。最後の最後に彼らの過去の様子が回想場面として出てくる。そこでの台詞は非常に象徴的である。彼らがお芝居を楽しんでいた頃、その台本を書いていたのはオサムだったことがわかる。またオサムは、爆竹銃のロシアンルーレットを使って、今回の物語のラストへ向かう道筋をつけた人物だとも言える。オサムの台本のオチはいつも同じ。だから今回もオサムは自らが筋書きを書いたように最後のけりを付ける。すると最後に台本にスポットライトがあたって終わるのもわかる。

 実は今回の登場人物は、それぞれが自分なりに仲間を助けたいという行動原理のもとに決断をしている。そしてそのやりとりの中では心配をかけまいとしているのか、照れくさいのかわからないが、本音を隠し、最初は正直に話さない。ウソをつこうとも思ってない。でも4人の関係性から本当のことをいわざるをえなくなっている。ここに題名の「吐露」がある。告白ではないのだ。オサムも最初からみんなを助けようと思っているわけではない。大切な3人の仲間が困っている様子をみて決断をする。そう、オサムが3人をいつもそうやって助けていたように。

 そうすると、このお芝居のオープニングが、なぜユリが1人でカバンを眺めるところから始まるのかもわかる。ユリの今回の行動も、テンパを助けてあげたいから始まっているし、今回の物語の発端ともいえる「銀行強盗をやめさせなきゃ!」も含めて、ユリの思いが逡巡していた場面だったと考えられる。でも。ひょっとするとユリは、「私がこのまま罪を引き受ければいいのかも」と思っていたかも知れない(実際劇中でそう言っている)。だからこの物語は自己犠牲についての物語でもあるのだ。彼らの行動に観客が共感できるのはそこだし、最後のオサムの決断とも呼応している。
 2回ほど、劇中の台詞に神様が出てくる。彼らの吐露は懺悔にも聞こえてくる。あの長方形なLEDのシーリングライトは何だったのかな。私はラストで、オサムの頭上で天使の輪のように見えた。だからあのラストはとても切ない中にも神々しささえ感じさせたのだと思う。

演劇についての物語

 えのもとぐりむによる「吐露」は、ネット上の情報をみると2017年に名古屋で初演されていた。その後、2019年3月、2019年7月と、全く別の演出・出演者で2度公演がされており、今回が4度目の上演となっている。なお2回目となった2019年時には、えのもとぐりむが演出も手がけているが、今回の演出を担当された東京ダイナマイトの松田大輔がケン役で出演している。そして3回目の公演では、今回の公演母体であるユニットimaingの主宰、実月いまがユリ役で出演している。またその時は今回のように複数チームによる上演だったようだ。
 演劇の場合、なぜその台本で上演したのか、の答えが無限にあり、そこにはかなり現実的な問題(公演規模や予算、出演者数など)が絡むことも少なくない。しかし「これをやりたい」という誰かの熱意で公演という形になることもいっぱいある。実月いまの主宰ユニットimaingは、2023年6月に旗上げ公演で、やはりえのもとぐりむの「無慈悲な光」と「慟哭」を上演している。それだけに、今回の物語にも何かしらの思い入れがあったのではないか。

 なぜここにそんな情報を羅列したかというと、このお芝居が「演劇」についての物語でもあるからだ。お話の中で一番違和感を感じるかも知れない部分が、「中3が4人集まったら演劇をするのか?」というところ。現実では多分しない(笑)。しかしここはリアリティの問題ではなく、明らかに作者の意図が込められていると考えられるところ。黒谷を「演出家」として考えると4人が右往左往する姿はまさに演劇的である。4人が黒谷からさまざまな悪事を指示された過去を話すところ、ゆりは黒谷にレイプされた過去があること、それこそ一昔前のハラスメント演出家の姿を想起させ、黒谷がいなくなってしまえばいい、とみんなが思っているところあたりは、そうやって考えるとかなりブラックである。公演期間中どれだけ親密になっても、芝居が終われば、「またぜひ一緒にやりましょう」の言葉と共に、まるでボウリングのピンのように散り散りになる。
 舞台は路線バスの運転のようだと言える。台本と演出をもとに公演ごとに同じ内容を60分なら60分毎回繰り返す。開演前には感情をスタート地点に戻し、そこから上演ごとにその役を繰り返し生きる。ボウリングもそんな演劇のメタファーだとして考えると面白いと思う。ちなみにかなり深読みをするとボウリング場をエンタメの象徴とするならば、4人のたまり場だった劇場とボウリング場が隣り合っている(しかもボウリング場は黒谷が建てた)のは、演者がやりたいアートな部分と、客を入れないと成立しないエンタメな部分のせめぎあいという見方までできてしまうかもしれないし、黒谷は悪徳プロデューサーのようでもある。
 そうするとなぜ背景に台詞があるのか(実月いまさんが作るのに大変ご苦労されたとお話がありましたね)も理解しやすくなる。4人の集合場所である劇場で上演されているであろう劇中劇のような扱いでもある「吐露」のセットでもあるのだろうが、このお芝居の中に出てくる台詞を並べたのは、演劇では大切な、そして切っても切り離せないものだから、そんな理由もあったのかなと思った。

終わりに 演劇と仲間

 そうやって考えると、この作品は仲間についての物語ともいえるかもしれない。演劇というのは人のつながりが財産のようなところがあり、実際この作品も、そんな流れの中で生み出されたといえる。劇団をカンパニーと呼ぶことがあるが、もともとは仲間という言葉から来ている。千秋楽後には、きっとあの4人が別れる時のような気持ちになっているのだろう。そして関わったスタッフ、そして客席にいる観客もすべて一期一会のつながり。そんなことに少しだけセンチメンタルな気分になって、私はこの作品のことを思い出している。再演される機会があったら、ぜひみていただきたいし、その時にはみなさんの感想を聞きたくなる。そしてその出会いに感謝しながら、その別れに寂しさを感じるような舞台だと思う。