舞台「シロツメクサ」の魅力:マジメに作品世界を掘り下げてみる!

2023年7月21日

 この文章は、かなり堅苦しい内容になっています(しかも超長文!)。おいおいエンタメ系の舞台だぞ、とツッコまれそうなぐらいマジメな内容になってしまって申し訳ないのですが、エンタメ系の舞台が心に残るのは、ふっと物語のどこかしらが観客の琴線にふれることがあるからだと思います。それに創作には作者が意図した表現と、無意識で表出した表現があります。これほどの素晴らしい舞台を、ただ「楽しかった」で終わらせるのはもったいないですよね。まあ、かなり深読みしている部分も多いと思いますので「はぁ?」な部分もあるかと思いますが、あーだこーだと観客が述べあうのはよい作品の証拠(?)。ぜひご一緒に考えてみませんか。それに、ある程度の情報がないと、作者や演者に興味がない方は、見ようかなという意欲が湧かないと思いますので、再演(?)のために書いていると思ってください。

はじめに ~作品全体のこと~

 池上線の最終電車の乗った、あまり関係があると思えない5人を描いた群像劇は、つきつめると普通であることは幸せなのか、という物語だと思う。そもそも普通かどうかというのは何を基準にして考えるかで変わってくるわけだが、シチュエーションコメディでもある本作は、ごく普通だと思える人物たちが、ちょっと普通じゃない状況に巻き込まれて、かなり普通じゃない状況になっていく。そしてラストでは、ある人物が、普通であること普通ではないことについて語って幕を下ろす。またこの5人は、冒頭の自己紹介の部分で、自分の幸せが何かをそれぞれがはっきりと言っている。その価値観の衝突ぶりもおもしろさになっている。しかも群像劇なのでどの演者を見るかによっていろんな受け取り方ができる舞台だし、複数回みることで発見ができるともいえる。

 お話のメインとなるのはみさきとマリの物語である。小学生の頃からずっと一緒だという友だち同士の設定であるが、それを架乃ゆらと二葉エマに演じさせたところがキャスティングの妙だと言える。知っている方も多いと思うが、このお二人はファンの間でも、そしてご本人同士でも「似ている」という話がしょっちゅう出てくる女優さんで、実際それを「私がAV女優になった理由(ワケ) 密かに好きだった親友の彼氏に好きなAV女優に似てると口説かれAVのようなアブノーマルプレイをヤリまくった3日間 二葉エマ」では物語の重要なモチーフとして設定している。そしてこの舞台でも、2人の関係性がやがて大きく変化していく様子が描かれる。この点は後でもう一度触れたい。

舞台設定上の重要要素 池上線とカタカナひらがな

 池上線の最終電車という舞台設定も実はかなり重要である。

 首都圏在住でない方のために補足的に説明すると、この路線は品川区の商業地、五反田と、大田区の商業地、蒲田間のわずか11キロを24分で結んでいる東急電鉄の一路線だ。だから一般的にイメージされる首都圏の路線とはちょっと違う。沿線は住宅街で利用者も少なくはないのだが、ついでに乗ろうとか、どこどこに行くために経由していこうという類いの路線ではなく、また沿線にランドマーク的な場所があるわけでもない。この物語が成立してしまうような緩い時の流れが存在できる空間だ。しかも最終電車(現在のダイヤで言うと蒲田発0時14分)というのは、そこまでの時間経過がなければ乗車する機会がない時刻なので、強い意志でこの時刻に「乗る」だったか、状況的に「乗らなくてはならない」だったのか、どちらかである。この5人はそれぞれ、どれだったのかはご覧になるとわかると思う。

 なお台本を見ると(物販で販売中!)役名5人のうち、3人がひらがな、2人がカタカナであるが、そのあたりも深読みすると面白いのではないか。

最大の謎、マリとみさきの友情は存在したのか?

 この物語には大きな謎がある。もし2人の過去がセリフのとおりであるならば(しかも、それをみさきが知っていたならば)、それでも、みさきとマリの友情が、なぜ小学生の頃から現在まで続いたのか、である。単純にそこまで何度も裏切られていたならば、いい加減、愛想を尽かすだろうし、離れてしかるべきだと思う。それでも続いたのならば、2人の関係性はかなり複雑な感情が絡んでいる。少なくとも普通の関係とは言いにくい。ただ、その点について私は別に説得力が無いと思っているわけではない。むしろ逆でちょっとコワいぐらいのリアリティがある

「彼氏がいないと生きていけない女子」みさきはずっと泣いている。しかし彼女は本当に泣いていたのだろうか? 泣き方がかなりウソっぽいし、子供じみているところがある。この物語の中には本当に泣いている場面、習慣的に泣いてしまっている場面、そして相手を安心させるためにわざと泣いている場面が混ざっていると思う。泣くという感情は一番原始的なものだ。実際彼女はよく泣いているのだろうし、泣くことで彼女はみさきや周囲の人間に助けてもらえることを理解している。だから泣く。みさきに助けてもらっていることには強く感謝している。でも、それゆえに簡単に逆らえないし、離れることができない。実際小学生の時のラブレターは半ば強引に受け取って渡しに行こうとしている。これが日常でずっと続いているのだ。メンヘラ女という表現はあまり使いたくないのだが、みさきにはそんな側面がある。彼女の心のアンバランスさは、この人間関係に起因しているところもあるのだろう。

 一方、マリは「友達思いのお節介女子」とのこと。確かに面倒見はいいのだろうし、みさきのことを数多く助けてきたのだろう。しかしお互いが本当に友だちと考えているかはかなり疑問である。劇中でもそうだが、マリはみさきに本心を打ち明けることはないし、そういう関係性を求めていない。人間関係が一方通行で固定化することはよい面ばかりではない。そんな関係性が長期化したことでで、みさきを助けることに満足し、助けてあげることで自分の存在理由を確かめるようになったのではないか。時には助けを求めてほしくて、わざとそう仕向けることもあったのかもしれない。そう考えれば、みさきの好きな人を奪ってしまうことはその延長線上にあったのだろうし、みさきが自分以外の人間を頼ることへの拒絶反応だったとも受け取れる。

 そうやって考えるとこの2人の関係性は歪んでいるとしか考えられない。心理学的に言えば共依存に近い関係性だ。そして大人になった今、トシくんとの結婚まで考えていたみさきにとって、マリがとった行動は、自分の心にあった最後の何かまで壊れてしまった結果なのだと思う。

もうひとつの見方、私とあなたでひとり

 2人を捉える別の視点として、それぞれが半人前で、2人で一人前のアイデンティティではないか、というのがある。この2人はお互いを補完する関係にあるが、その結果、2人がそれぞれを必要としているうちに従属関係が生まれ、相手を自分に取り込もうとしているのかもしれないという視点だ。これまでにも双子の争い、似ている人物同士の争い、他人が自分になりすます、こういった題材は古今東西数多くの小説や映画などで扱われている。映画『ルームメイト』(1992)では、喧嘩をして同棲相手を追い出したアリーが、同居人募集の広告を出して、自分とは全くタイプの異なる地味なへディを同居相手に決める。二人は互いに意気投合するが、次第にヘディはアリーの真似をするようになっていく、という物語だ。

 ここではアイデンティティの侵食という恐怖が描かれているが、お互いが必要性を認識し合っている状況であれば平和でも、それが不必要、それどころか同じ人間が2人いる煩わしさを感じ始めると、容赦なく争う様子に説得力があった。実際この舞台でも2人の衣装は感じが似ているし、演じるのも「似ている」としょっちゅう言われる架乃さんと二葉さん。好きになる相手も似てくるだろうし、どちらにイニシアチブがあるか、どちらが「私」なのかを、争うようになった関係なのかもしれない。

お互いの過去作に、今回の役柄のルーツがある?

お互いの過去の出演作にも、不思議なぐらい似た役柄あるのも面白い。

 架乃ゆらさんは、初主演映画「欲しがり奈々ちゃん ~ひとくち、ちょうだい~」(2021年城定秀夫監督)は、幼いころから他人の持っているものが欲しくなる性分の女性を演じた。

 この作品の場合、自分が手に入れてしまうと欲しくなくなってしまうのがミソなのだが、さんざん同じ過ちを繰り返すのだが最終的に自分自身の成長によって、今までとは違う選択肢を選ぶようになる物語だ。

 一方、二葉エマさんには「真・透明変態人間2 魔性の香水に翻弄されるオンナたち」(2022)というVシネマがある。

 これはレイプリベンジものの系譜で、女優の夢を抱きながらメイドカフェで働く女の子ひまりは、悪徳プロデューサーに騙されて、性のおもちゃとなってしまい、精神的におかしくなってしまう。彼女は騙されてウラ風俗産業に堕ちていくのだが・・・という役(後半はスゴい展開が待っている)。こうやって並べると、本作の役どころとの奇妙な符合が興味深く、スタッフの方がこのあたりをご覧になっているかどうかが気になる

エンディングの解釈

 この物語は最後に208号室の住人が肉じゃがを部屋で見つけるところで終わる。ちなみに私はあの肉じゃがには何かが混入されていたと考えている。みさきの「トシくんを許さない、許せない」という感情からすれば、何かを混入することも不思議はなく、メッセージも、置き手紙ではなくケチャップを使った、というのも視覚的な赤という色から血を想起させるからだ。ついでに最後にその住人を演じた女優さんが、暗転までの間に不思議な動きをしていたことにも何か意味があるのかも知れない。

「シロツメクサ」はトラジックコメディの秀作!

 最後に普通であることは幸せなのか、であるが、少なくても普通か普通でないかだけで判断はできないのだろうという感じに受け取った。この5人はみんな普通であったけれど、みんな普通ではなくなった。誰かだけが幸せな結末を迎えるということもなかった(占い師さんはわからないが、ああいうキャラの方だからシンデレラストーリーが待っているとは考えにくいだろう)。
 幸運や約束と言った一般的に知られる「シロツメクサ」の花言葉を考えても、そして四つ葉のクローバーが幸運の印だということを考えても、かなりブラックな終わり方だと言える。しかしトラジックコメディ(悲喜劇)として、この舞台はとても魅力的で、楽しませてくれた。再演される機会があったら、ぜひみていただきたいし、その時にはみなさんの感想を聞きたくなる。そんな作品だと思う。